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ヒャクブンはイッケンにシカズ (5)

2015年12月30日 - ヒャクブンはイッケンにシカズ / 連載

テキスト・写真     鈴木一成

◎ 写真の進化と身体感覚

気付いたらあっという間に年末ですね。
年内に8本くらいは記事書けるかな?とか思っていたのですが、なかなか書けていないですね。反省。
一年の締めくくりにどの作品について書こうかなと考えていた折りに、僕のツイッターのTL(タイムライン)にこんな呟きが流れてきました。

> [ 信じられないかもしれませんが、オートフォーカスが登場した時、「自らピントを合わせないなんて、魂が込もらない」って意見があったんです
自動巻上げが出た時は「一コマ一コマ巻き上げてこそ気合が」
デジカメが登場すると、フィルムじゃないと魂が…. ( 以下略 そして、そう言う人は今もいるのです)  ]

140文字の呟きですし、後のツイートで

> [ 本ツイートは、全部マニュアルじゃないとダメだと主張する一部の方を揶揄したものです  ]

とも言っていますので、別に追求するようなことではないのですが、ずっと小骨が支えたような感じでいたので、12月25日まで開催されていた「 写真新世紀 東京展2015 」と併せて考えてみようと思います。

1990年代後半からのインターネット・デジタルの普及は想像を遥かに上回るスピードで進化しています。写真(カメラ)はまさにその大きなうねりに呑込まれていますね。最近は随分と落ちついてきたけれど。
そもそも写真(カメラ)の進化はカメラ・オブスクラ( ※1 camera obscura)の考えに基づいて発展してきました。当初はデジタルカメラも例外無くその範疇にあったと言えます。
しかし、撮る人の行為や受け取る人の態度はこの10年で大きく変化し…そしてスマートフォンの台頭です。← 僕はこれが冒頭の呟きに関係していると思うのです。

僕が最初に使ったカメラ OLYMPUS PEN F では、絞りとシャッタースピードは操作したように覚えています。ピントは自動だったかな?? でも1980年代当時でも普通にコンパクトカメラは普及していたので、ピントや絞り、シャッタースピードなんてものは、その頃から“自動”が当たり前だったのでしょう。

写真の勉強をしたことがあれば普通にわかることですが、同じものを撮影しても絞りやシャッタースピード、ピントが違うと全く違う写真になります。
当時の写真家はこれらを意図的に扱うことが当たり前でした。
かくいう僕も学生時代には露出計(光の強度を測定し、設定すべき絞りやシャッタースピードを割り出すための機械 )を持ち歩き目測でその場の露出が分かるように訓練したものです。(光の強度を身体で覚える為です!)
しかしデジタルカメラの登場でレタッチによる画像の明るさなどが簡単に変えれるという認識が、カメラを使う際の露出の扱いのハードルを下げたように感じられます。
もちろんそんなに簡単なことではないし、現在も写真家は当たり前のように絞りやシャッタースピードをコントロールして撮影を続けていますが。。。

ここ数年、現代アートの作家達の間では「 身体感覚 」というキーワードが散見されます。例えば絵画でしたらそれは思い切り筆致に現れるし分かりやすいですね。こと写真になるとシャッターを押せばあとは機械の仕業ですし、デジタルで撮影されたものではその後の作業はすべてモニターの向こう側での作業になってきます。

写真に於いて露出やピントは 身体感覚にかなり密接な関係でした。
スマートフォンなんかでは撮影される対象の顔を指でちょんと触ると何となくそこにピントが合います。
撮影者の意思は “あの人の顔にピントを合わせたい” ということになります。
でも、一眼レフのファインダーを覗いて距離リングを廻してピントを合わせるとそこには個人差が現れます。視力の善し悪しや、個人的な感覚です。対象者の顔の何処をみてピントを合わせるのか? というようなことで、ピントに微妙に差異が出るのです。
僕は、一番ピントを合わせたい部分(例えば瞳とか鼻先)から僅かにカメラ寄りにピントを持ってくる癖があり、その事によって画面上にぼやけた部分が(おそらく一般的に別の方が撮影した場合)より多くなります。露出も適正より数値で 2/3程度明るく撮影していました。
これらはまさに僕の「身体感覚」なのだと言えるのではないでしょうか?(実際にはレンズやフィルムサイズ、絞りなどが大きく関係してきますが… )
そしておそらく直接的な原因はデジタルカメラの撮像素子の大きさなんです。一般的に使われているデジタルカメラに付いている撮像素子は大きいと言われているAPSでもフィルムの65%程度です。
大きくぼやけている像を小さくするとはっきりピントが合っているようにみえますよね?逆に考えると、小さいものは全体的にもやっとピントが合っている状態が限度とも言えます。
そうなるとそこに以前のようなピントの話を持ち込むのは理論上難しいので、これで良しとしておくか。と言った判断がされかねません。むしろ最初の写真(カメラ)がそういうものであれば、ピントは合わせるものでなく、合うものだという認識が当たり前なのでしょう。

写真というのはカメラと言う機械の仕組みやシステム、そして撮影者の身体感覚が複雑に絡み合いながら表現されているメディアなのです。そう考えると冒頭の呟きの精神論みたいなのは最初から論点がぼやけてしまっているのですが、身体感覚の話に置き換えると分かりやすいなぁ、と考える訳です。

さて、話は<写真新世紀>に移るのですが、今回は(僕の好きな)コンセプトの話は一旦置いておこうと思います。
今年の Canon 写真新世紀 2015 はこれまでとは様相が一変したと感じた方も多いのではないでしょうか?
映像作品の出品が認められた事や現代アートとの垣根を感じさせない作品が増えた事がその大きな理由ですね。
今回グランプリを受賞した迫 鉄平さんは映像の作品でしたが、他のどの作品よりも写真的な問題へ言及していたところが面白く感じました。

写真には「メイキング・フォト」と「テイキング・フォト」という考え方があるのですが、僕の感覚では現代アート寄りの人は「メイキング・フォト」に共感する場合が多く、写真的なものを指向する方はテイキング・フォト寄りの考え方が多いように思います。
迫さんの作品のアプローチは現代アート的でありコンセプトもしっかりしているようでした。日常で目にするような何気ない光景がある一定の時間記録された映像とその間をシンプルなワードが繫ぎあわせて行く作品です。そこには確かに写真を撮る誰かが感じる刹那が立ち現れては消えて行きます。でも、この作品はその刹那を切り取ることはなく、ただ時間が過ぎてゆく事だけを意識させられます。
ただ見ているだけなのです。
写真を撮る身体感覚で言えば「見る」が「視る」に変わるとシャッターを切るきっかけが生まれます。どの刹那を切り取るのかはもっと個人的な身体感覚に頼る事になります。
写真と名の付く公募でグランプリを取った作品が写真的である事を放棄した作品である。ということがやはり冒頭の呟きを後押ししているようにも感じられます。

カメラの誕生からそろそろ200年、ようやく完成した写真(カメラ)の意味は大きく変わろうとしているようです。
もう僕はそれをカメラとか写真と呼ばなくてもいいんじゃないか?とさえ感じています。
それは表現に関わる現場に居る身としては、機械化されることへの問題提起というより、透明化する身体への恐れなのかも知れません。

ただ、そこからまた新しい表現がうまれてくるのですし、ある意味で作家達は身体感覚をとても重要視しているので恐れるような事ではないのかも知れませんね。

※1  カメラ・ オブスクラ(camera obscura)

 

 

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僕の働いているGallery OUT of PLACE TOKIOでは現在彫刻と写真を中心に制作する小林且典による『静物学』が開催中です。 新年は1月9日から展示再開となります。
絵画の基本とも言える「静物」に取り組んで20年になる作家のまさに身体感覚が感じられる展示になっております。是非ご高覧ください!
詳細 > Gallery OUT of PLACE

 


◎ 鈴木 一成 /SUZUKI Kazushige
1972年 東京生まれ。桑沢デザイン研究所写真研究科卒。
3年間の渡仏生活を経てフォトグラファーをしながら個展やグループ展で作品を発表。
巡り巡って現代アートの Gallery OUT of PLACE TOKIO にてディレクター業、桑沢で非常勤講師。ゆっくり制作、たまに作品展示。
http://kazu72shige.tumblr.com/

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プロフィール写真
©Jun MIYASHITA

 

 

 

 

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