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ヒャクブンはイッケンにシカズ (6)

2016年7月13日 - ヒャクブンはイッケンにシカズ / 連載

テキスト・写真     鈴木一成

◎ 現代のニューヴィジョン

年が明けてからあっという間に半分が終わってしまいました。
4月から本格的に学校とも関わりはじめ慣れない忙しさに、こちらのテキストをさぼってしまいました。ごめんなさい。

学校では写真を中心に基礎造形というものも教えています。
僕が教えている専門学校桑沢デザイン研究所(http://www.kds.ac.jp/)はバウハウスの理念を引き継いだ学校として1954年に開校しました。
結構ユニークな教育スタイルで、専門学校をうたいながらも入学時には様々なデザイン(ビジュアル・プロダクト・スペース・ファッション・フォトグラフなど)を多岐に渡り学びます。そこからそれぞれの専門分野に次第に絞り込みながら3年間(夜間であれば2年間)の学生生活を送ります。
僕自身もこの学校の卒業生ですが、当時は全くその特殊性に気付くこと無く過ごしていました。

さて、そもそも写真を中心とした基礎造形って一般的には何を言っているの? と思いますが、モホリ=ナギ(Moholy-Nagi)という作家を思い浮かべてもらえれば理解しやすいでしょう。(ちなみに個人的には、作家としてマン・レイ(Man Ray)の方が好きなのですが… 当然ながら様々なモホリ=ナギの功績(教育・執筆・思想・創作)は脈々とうちの学校の基礎造形の理念へと繋がっているからです)

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art works / Moholy-Nagy László

 

これら一連のモホリ=ナギの作品は絵画と写真の関係を露にし、構成や色彩、運動などの要素から問題に取り組みカタチにすること、さらにはフォトグラムやフォトモンタージュ、ソラリゼーションなどの「超写真」への作業へと繋がって行き、それら全てを ”視覚造形” として提示しました。
簡単に書いてしまいましたが、カメラ・オブスクラの流れから(前回の記事に注釈あり)を含め、詳しくはL.モホリ=ナギ著の「ザ ニュー ヴィジョン ある芸術家の要約」を是非読んでみて欲しいと思います。

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ザ ニュー ヴィジョン―ある芸術家の要約 /
L.モホリ・ナギ (著), 大森 忠行 (翻訳)

 

写真と云う魔法の普遍性について語る時…そして、私たちが物のカタチを認識する時…そこには必ず光が在ります。
まさに暗室での光の体験はそのカタチ(視覚造形)を体験するには絶好の機会なのです。
モホリ=ナギやマン・レイをはじめとして多くの作家達が暗室での作業に明け暮れたのは当然の事だったのでしょう。

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art works / Man Ray

写真というのが光のカタチを紙の中に閉じこめる一方、モノのカタチを単一の光で覆う事で顕在化させる作家の代表が Christo & Jeanne-Claude ではないでしょうか? 6月18日から7月3日までのたった16日間だけイタリアのイセオ湖に現れたクリスト(とジャンヌ・クロード / Christo & Jeanne-Claude)のインスタレーション作品「The Floating Piers」(http://www.thefloatingpiers.com)は非常に素晴らしい作品のように感じました。(画像を見る事でしか体験出来ていないのが残念で仕方ありません)
彼らの作品はアーキテクチャーを覆い隠すことで、そのスケールの大きさも相まって鑑賞者(体験者とも言える)の感情に揺らぎを与え、それまで見ていた(認識していた)景色・カタチとは何だったのか? いま眼前にある美しさは何処から来たものなのか? と思考を巡らせるのです。
さらに今回のインスタレーションに於いては、地上から海へと続く黄金の光の上を歩くという非日常体験をまさに不安定な揺らぎの上で体感する事になるのです。

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The Floating Piers
Photo: Wolfgang Volz ©2016 Christo

体験は出来なくとも視覚的にも非常に美しい光景ですよね。

そしてまさに今クリストの作品を観たように、私たちはディスプレイによって多くの光の体験を重ねています。
ディスプレイはもしかしたら現在のカメラ・オブスクラなのかも知れません。
そのような事を考えデザインの教育現場に身を置きながら、写真を通して現代アートの世界を見通してみると非常に面白いタイミングです。

イメージの表層を鋭く剥ぎ取るもの(デザイン)と、モノとして存在することで他者の価値観を覆すもの?(現代アート)。クリエイションの作用を考える時、人々が受け入れやすいものと人々が理解しがたいものの価値はイコールです。
現在の私たちは多くの場面で二項対立で物事を計り過ぎてはいないでしょうか?
黒から白、YesからNo、2Dから3D、デザインからアート…これらは二項対立で語るようなものではなく、緩やかなグラデーションを帯びて連なっているものなのです。

僕自身が追体験のような授業を繰り返して行く中で考えているのは、クリエイションの緩やかなグラデーションの真ん中に立つことが可能なのは写真的価値観なのではないだろうか?ということです。
紙の中に閉じ込められていた光の魔法は、デジタル(インクジェットプリント)によって紙の上に引きずり出され、より絵画性が高くなっています。いつまで、写真は写真として存在するのでしょうか? まだ暫くは紙の中と上を行ったり来たりするのでしょうが、これもその途中に一つの解答が得られる気がしています。

今回はちょっと強引に話を進め過ぎた感じがしますが、お許しください。笑
じつはこのテーマは以前読んだ松岡正剛氏の千夜千冊(http://1000ya.isis.ne.jp/1217.html)がきっかけとなっています。
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絵画は写真でなく、
映画は写真ではないのか。
それなら、動く写真や映像文字とは何なのか。
グラフィズムとフォトグラフィズム。
フォトグラフィとフォトグラム。
異才モホリ=ナギが見せるニューヴィジョンは、
今日のコンピュータ時代にこそ
読み替え可能にものになっている。
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◎ 鈴木 一成 /SUZUKI Kazushige
1972年 東京生まれ。桑沢デザイン研究所写真研究科卒。
3年間の渡仏生活を経てフォトグラファーをしながら個展やグループ展で作品を発表。
巡り巡って現代アートの Gallery OUT of PLACE TOKIO にてディレクター業、桑沢で非常勤講師。ゆっくり制作、たまに作品展示。
http://kazu72shige.tumblr.com/

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プロフィール写真
©Jun MIYASHITA

 

 

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